映画『亡命』(翰光監督/2010年)

六四天安門事件34年目の今日、記念に何か読もうと思ったが、今読んでいる鄭義の『中国の地の底で』は、まだ読み終われそうにないので、『亡命』のDVDを観ることにした。

このDVDは、「異人」である僕にとってのバイブルでもあるから。/

 

 

【「獄」という字両側は「犬」で 真ん中は「言葉」だ

中国の牢獄は 人間ではなく 言論を監禁するものなのだ】(陳 邁平)/

 

 

鄭義:

 

【英語で演説しようとか 本を書こうとは思わない 

これは文学の根本的な問題だと思う 

つまり なぜ書くのかということだ 

(略)

今は問い続けている 

私が売れる作品を書けば 子供の進学を含め 家族の生活を改善する大きな助けとなる 

ではなぜ 読者の有無も気にせずに自分の理想の創作に固執するのか 

誰も聴かないのに 独りで歌い続けるのか 

誰に対して歌うのか それが問題だ 

創作とは ある意味で神に対する独白だと思うようになった 

神に対する祈りであり自分の心の奥底に隠されたものの表明だと‥‥

だから 他人の評価は問題とはならない 

文学 芸術とは 自分自身を最も感動させることだと思う】/

 

 

胡平:

 

【「海外に暮らして22年になるが、最も残念だったのは 母の死に目に会えなかったことだ 母は2000年に亡くなった その1年前から重病を患っており 86歳の高齢だったので 今 帰らなければ 2度と会えないと思った

でも私は入国を許されない ブラックリストに載っている 

(略)

その時の母の手紙にはこうあった 

帰ってきてはいけない 例え政府が許可しても‥‥

なぜなら 私は彼らを信用していないから

(略)

だから 母は言ったものだ 

毛沢東は 過去は問わないと言ったのに おまえの父を殺した

私は そのことを死んでも忘れない」】/

 

 

自らの思想信条のために国を棄て異郷の地で生きる彼らを、人は不幸せと呼ぶのだろうか?

僕はそうは思わないのだが。/

 

 

彼らを含むすべての亡命者に、同じく亡命者であるウラジーミル・ナボコフ 「ロシアに届かなかった手紙」の一節を捧げたい。/

 

【ねえ、いいかい、ぼくは理想的なくらい幸福だ。ぼくの幸福感は一種の挑戦なのだ。すりへった靴底から伝わる湿気の舌先をぼんやりと感じながら、通りや、広場や、運河ぞいの小道をさまようとき、ぼくは言葉にはあらわせない幸福感を誇らしげにもちはこぶ。幾世紀もがすぎされば、学校の生徒たちもぼくらの革命騒ぎの話を聞いてあくびをするようになるだろう。あらゆるものが消えさるだろう。けれど、ぼくの幸福感は、いとしいひとよ、ぼくの幸福感だけは残りつづけるだろう。街灯の湿った照りかえしのなかに、運河の黒い水面へとくだってゆく石段の用心深い曲がり具合のなかに、ダンスをする男女のほほえみのなかに、神がかくも惜しみなく人間の孤独をつつみこんでくれる、あらゆるもののなかに。】/

 

ひょっとしたら、「幸福」っていうのは、ひとつの意志のスタイルなのかも知れない。/